雑記

2000年1月分


20000130(日)

さりげなく歓喜。
それはストーブの復活を意味する。
これで寒さで目が覚めるということはなくなるであろう。
何かと慌ただしくなりそうな、また今週。
いや、いつも慌ただしいな。
それはそれで、いいのだ。
一つずつ片づけていくとするか。
少しは休みながらも。


20000129(土)

最近、よく地下鉄に乗りながら本を読んでいる。
南北線を1往復。
いろんな声が耳に入ってくる。
何とはなしに心地よい。
喫茶店やファーストフードでも読むが、何かしら「音」がある中での読書は気持ちがよい。
ふと耳に入ってくる会話が当たり前のようにリアルだ。
このリアルは、しかし同時に表現が持ちうる衝撃を持つことはない。
表現においてはリアルでありながら、そこに衝撃がなければいけないのである。
時にそれは陳腐に陥る危険性もはらんでいる。
そいつを嗅ぎ分ける嗅覚が必要だ。


20000127(木)

手袋をなくす。
この時期それは厳しい。
なぜか起きたら腰痛。
それはそれで困ったものである。
とりあえず、今は落ち着いているが、少しばかり疲労しているのかも知れない。
構築の時期。
毎日少しでも時間は必要だ。


20000126(水)

久しぶりに、本当に久しぶりに、少しばかりの二日酔い感覚。
新しい出会い、新しい事件、新しい発見、新しい表現……
しかし、何か根元的なものはそう変わることはない。
人間にとっての真実とは「いま、ここ」ということしかない。
超越論的な構築にはなにかしらのウソ臭さをかぎ取ってしまう。
「いま、ここ」というリアリティ。
それは一つの支えである。
けれども、その「いま、ここ」もどこかしら幻想じみていることもある。
妄想と幻想と想像の彼方にある「私」にリアルなものとは何か?
それが演劇につながってくるはずである。


20000125(火)

時間があるときには雑記が書ける。
でも記録としての意味は薄い。
それでもいいのだ。
「雑記」だし。
今日から「ぐぅ」稽古再開。
その前に、細々と劇団関係のレジュメや何やらを考えてみるか。
しばらく動いていないから体もなまっていそう……
10才モードに戻していかなくては。
精神的な状態は少しばかりではあるがシンプルになりつつある。
一つ山を終えて落ち着いたということか。
ある意味で、充実した時でもある。
本当は創作中にシンプルに充実すべきなのであるが……
そういう状態になれるような分析と努力が必要なのだろう。


20000124(月)

遊戯祭、早めに帰宅したのに、全く眠れず。
結局、30分ほどウトウトまどろんだだけ。
一日パソコンに向かいホームページの更新やら、会計業務を少しやら、細々といろいろ。
気分が高揚していたせいで、眠れなかったというのでもなく、どうにも不思議な感覚。
新しく動き出す予感もはらみつつ、しかし、目前には「ぐぅ」の稽古があったりして。
明日から再開。
純粋に役者である自分と劇団の代表である自分はやはりどこかで乖離している。
満天飯店で舞台に立つことの意味を考える。
おそらく、それよりも劇団ということの意義を考えるべき時なのであろう。
劇団でできること、あるいはできないことを見極める作業が必要だ。
それは具体的プランを伴っていなければならない。
……おや、ここは「飯店記録」か?
遠く先を見ながらも足下を固めていくこと。
そういうことだ。


20000121(金)

一つの怠けが、二つの作業を生み出す。
しばらく、パソコン上での作業を放っておいたら、なかなかにたまってしまった。
稽古は続く。
毎日少しずつ読んでいた本がようやく終わる。
ジャン・ダニエルー『キリスト教史1』。
1というくらいだから、当然続きがあって、全部で11冊。
とりあえず今年上半期の本ということになろう。
今のところ、3世紀までのキリスト教を追っかけている状態。
しばらくは歴史書という作為と戯れてみるか。
その間を縫って手塚治虫『クレーター』第1巻を読む。
こちらはチャンビオンに連載されていた短編シリーズの文庫本。
ふと、思う。
なにかしら心に引っかかりを生む作品というものは、作り手の作為を意識しないものだ。
漫画の場合、その描写に引き寄せられて、作者である手塚治虫のことを忘れてしまう。
たとえ、当人が漫画の中に出てきてても、だ。


20000117(日)

あいかわらず、慌ただしく。
稽古や飲んだり、聞いたり、話したり……
それもこれも、なんとも中途半端な今の生活がなせる技。
ゆっくりと考える時間を確保せねば。
停電ではなく充電を。
一つずつ解決していこうということでもある。


20000114(金)

ここ数日はやや、あっちへ行ったりこっちへ行ったりの毎日。
なかなか落ち着かない。
それも公演直前であればいたしかたないし。
それとは別に自らの身辺の整理も考える。
少しずつでもシンプルにシンプルに。
それは部屋の中から始まり、精神状態に終わる。
何か見え始めているような気がする。
それをしっかりとつなぎ止めておくためには、なるべく見通しは明るい方がいい。
そしてじっくり力を蓄えつつ見定める。
今年はきっと、そういう年になるのだ。
そのためにもまずは整理。
それから、目を開くということ。


20000111(火)

久しぶりに腹痛に苦しむ。
腹痛の旅にNG食品が分かってくるあたりはまさにトライ&エラーなのだが、その代償は常に大きい。
まぁ、10年、20年とデータが蓄積されてようやく自分の体というものが分かるのかも知れない。
それにしても、相変わらず道は長く、困難だ。
昨日ほどではないが、時折キリキリとくるものがある。
そのたびに集中力が落ちていく。
「健康管理」という言葉は不健康な立場に立って初めて理解しうるものなのかもしれない。
年に数回は自分が「病気」であることに気付かされる。
それを回避するためにはやはり厳密な「健康管理」が必要なわけで、やはりそこでも自らの「病気」のことを意識しないわけにはいかない。
一生ものだから、とりあえずは。
細々と作業が迫ってきている。
まずは、そこいらへんをクリアに。


20000108(土)

柔らかくしなやかで俊敏な男をみた。
演劇ワークショップ初日。
どこか、舞踏のワークショップとの共通性をもった、そんなワークショップ。
理論と実践の相互のフィードバック。
その積み重ねとしての方法論。
それは作品を構築するための土台である。
今日はコンカリーニョには行かず、「ぐぅ」の稽古へ。
今年はそれでも少し歩みを遅くしてみようと思ってはいたが、やはりそれなりの駆け足であるかもしれない。
師走に走る、世紀末に走る。
そして新世紀にも走るのであろう。
時にはふと立ち止まってみようか。
まだ、新年があけて間もないというのに、すでにどっぷり2000年に浸ってしまっている。


20000107(金)

満天飯店の稽古も(ようやく)あけた。
少し飲んだ。
ハイスピードで遊戯祭まで。
10万場力のアトムの時代は近いのだから。
相変わらず読書時間は確保できず。
眠る前に読んでいるのだが朦朧とした意識の中で、2世紀の初代教会の動きがかすんでくる。
信仰と学問は共有可能なのかということが、この読書のテーマのような気がしてきた。
とりあえずは年の上半期で11冊読破を目指してみるか。
ずいぶん亀のような読書だけど……

本日、舞台塾・演劇ワークショップ初日。


20000106(木)

連日、「ぐぅ」の稽古。
飯店はようやく今日が稽古始め。
余裕なのではない。
しかし、その間にいろいろとやっておきたいことはできたような気がする。
とりあえず全体的なプランの練り直し等々。
いろいろとリニューアルの準備。
飯店のホームページの管理もするようになるし、それにあわせてのいろいろなど。
終わってからのことは終わってから考えたいのだが、そうもいかないようである。
おでん鍋のように思考をうまく区別できるといいのだろうけど。
むしろ今は闇鍋である。
最近、キリスト教の歴史に関する本を読み始める。
何せ11冊組の本。
いつ読破できるのかはまさに、「神のみぞ知る」である。
この2日間で40ページ。
今年のもう一つの目標は「読書量の回復」でもあれば。

連絡がほしいというので電話をしたら「失礼」と切られてしまった。
どうしたものか。
それとも新手の2000年問題か。


20000104(火)

この正月、少しばかりのビデオと少しばかりの読書と少し多めのゲームと。
漠然と時間を使っていくと思考までもが漠然としてくるようだ。
今更ながら今年の抱負を語るのもどうしようもないのだが、
「早歩きで、でも足下を踏みしめて」
これが2000年のテーマであろうか。
なにかにつけて自らの状況も変わってくる。
その中で自分はどのような表現ができるのであろうか。

ありのままを描きたい、と思う。
この「ありのまま」は僕自身にとっての「ありのまま」でしかあり得ない。
その「ありのまま」とそれに触れる人の「ありのまま」。
そこに共感が生まれる。
それはリアリティという言葉では片付かない何かだ。
客観的なリアリティは存在しない。
ただ、僕にとってのリアリティ、リアルはある。
僕が描く可能性はそこにしかない。
あとは描くための技術と努力なのであろう。

……そんなことを考えた年末年始。
今日は稽古始め。
問題は自分の劇団ではないことか。
新しい満天飯店。
そしてひっそりと、しかしながら新しくありたい表現。
今の「ありのまま」だからこそ、逆に普遍性が生まれるかも知れないという可能性の予測。