L/W 雑記
20000531(水)
島田雅彦を読み終え、ジューヌ・ベルヌを読む。
帝国から海底へ。
海底から荒野へ。
クムランを題材にした小説を1ページだけ読む。
しかし、活字との相性は悪いらしい本日。
今日の彼らはよそよそしく、頑固だ。
同時に活字を生み出す作業も苦痛である。
そういう時は、活字を放っておくしかない。
軽い筋肉痛と、夜の散歩。
何も生まれてこないけど、何か胸の中のモヤモヤとした塊がガラスの瓶に詰め込まれ、棚に陳列されていく妄想を抱く。
いい傾向だと思うことにしよう。
復活まではまだまださ。
ファストフードの店で本を読み、コーヒーを飲み、傍らの会話にふと耳を傾ける。
「あんた、仕事するのはいいけど、ちゃんとしたところで働かないとダメだよ」
そのコトバに相手の男性は何も言わないけれど、僕は「はい」と小さく呟くのです。
ふと、今自分が見ている活字が空虚になる瞬間である。
20000530(火)
肉体の日、2日目。
うまいビールを飲む。
最初の一口があそこまでうまい飲み物はない。
ゴクゴクとシュワワーの先に、「ぷは〜」が待っている。
へろへろしながら、11月の舞台のことなど考える。
それから、テレビの海外ドラマを考える。
そして、普遍なるものへ考えは移ってゆく。
ここ数日の寝る前読書は島田雅彦だ。
家にある文庫を読み返している。
そろそろ別の本を読みたくなってくる頃だろう。
20000529(月)
体を使う。
私は見た目が肉体派ではない。
そして、実際、肉体派ではない。
物を運んだりする。
頑張れ、握力。
久しぶりに箱馬に参加する。
突き抜けられない感じは肉体的疲労のせいか。
ふと、柔らかく、軽やかに。
なにかしら硬直した一日であった。
20000526(金)
ラジオだったり、打ち合わせだったり、飲み会だったり。
いつのまにか午後は過ぎてゆき、午前になる。
何とはなしに、小休止へ。
20000525(木)
日中はの〜っと過ごす。
「生活」のようなことをする。
外面的なところからでも整理をしてゆくことで、内面も少し整理できるのではないかという試みである。
あちらに手を出しては休み、こちらを除いてはお茶を飲む。
結局、さほどのことはせずにそのまま時間が過ぎる。
意味もなく、しかし、確実に贅沢な時間を過ごしている。
夕方から動き始める。
教文フェスの会議、引き続いて7月の芝居のミーティング。
気持ちの比重を変えてみることで、何かが変わるかも知れないと考える。
エレンタールは経済的な栄養源である。
だが、こればかりだと、力が入らないような気がする。
飲むうちに脱力感が出てくるのもまた、特徴でもある。
つまりは、「食った。やるぞ」という実感を得にくい食事なのだ。
だらだらと空腹感を満たしつつ、瞬発力を奪っていく。
魔の飲み物、エレンタール。
だが、経済的である。
ロボットの気分も味わえる。
ある意味で、少年時代の漫画に出てきた「未来の食べ物」のようだ。
ひたすらに栄養の摂取を目的とした近未来飲料、エレンタール。
近未来の一般的なイメージは、つまるところ「立ち止まらないこと」にある。
全てが流れるように進められることが理想とされている。
スピードと効率が優先される。
食事をとるためには一度、作業を中断し立ち止まる必要があるが、エレンタールは摂取しながら作業が出来る。
これはまさに近未来の思考なのである。
立ち止まるのはゼイタクでもあり、罪悪でもある。
クローン病患者にとって食事はある種、罪悪感を伴う作業だ。
特にレッドゾーン・イエローゾーンの食物を摂取する時は、それまでに体験したことのない緊張感を要求される。
ある日突然、「食べてはいけないもの」を宣告される。
その日から、クローン病患者は食べることに強い憧れと、罪悪感を抱き始める。
食べるという、「健常者」にとって何でもない行為が、彼らには勇気を要する作業となるのだ。
僕はというと、時々、そのことを無視することにしている。
通院を無視し、投薬を無視し、食事制限を無視する。
だが、身体への監視は怠らない。
少なくともそのフリを続ける。
クローン病が現代の医学では直すことの出来ない病気である以上、患者に出来ることは自らのQOLをいかに高めるかということに尽きる。
「ヤツ」をいかにだまくらかして、食うことを楽しむか。
それは身体を張ったゲームでもある。
つまり、それぐらいいい加減でいられるのが理想なのだ。
所詮、自分の身体なのだから、「ヤツ」を恐れていても始まらない。
病気を友とするためには、それでも楽しむ姿勢が必要である。
絶食ブラザーズしかり。
最近の自問自答。
Q:なぜ芝居をするんだい?
A:入院しないためさ。
20000524(水)
久しぶりに夜には何もない日。
暇、といえば果てしなく暇。
そうではないといえば、これもまた真なり。
そういう意味では毎日変わらない生活ではあるが、現在はぼんやりと目の前に薄い霧がかかっていて、先がよく見えない。
これを不安と呼ぶならばそうかも知れない。
いろいろな感情がないまぜになって、ストンと落ちる。
感情のジェットコースターは、瞬間的には楽しいが、長い間乗り続けるような代物ではない。
散歩に出て、ぼーっとしていると、「私」という存在の希薄さに気付く。
希薄なのだけど、かすかに主張している存在。
それが「私」だ。
「私」は関係の中に生まれる不思議な存在だ。
孤独もまた関係である。
関係という網の目の中に「私」がある。
その網の目から少しだけずらしてみるところに想像力がある。
そして、ぼんやりと企画書を打ち込む。
テレビではモンゴルの草原。
モンゴルの草原は夢想の中の「いつかゆくところ」。
海の近くの町で生まれて育ったせいか、海はどこでも懐かしく、飽きない。
海が幼なじみだとすると、草原は憧れのあの人である。
20000523(火)
上昇と下降の繰り返し。
少なくとも集中力の持続は難しい。
飯店の稽古。
たくさん動いてみた。
ここ数日の筋肉痛に他のメンバーも引き入れようという魂胆だ。
少しずつ動く肉体を取り戻すということが大切だ。
動く肉体は、演技における思考の可能性を広げる。
動く、という作業をしみこませること。
そこからふにゃっと出てきたものを捕まえるのである。
シャキッとという直線的なものではなく、ふにゃっというしなやかさが大切だ。
大通公園ではエイズのアンケートとタバコ。
20000522(月)
島田雅彦を半分くらい読む。
どちらかというと落ちているときに読むとちょうどいい作家であるようだ。
健全なときにはかえってコトバがすり抜けてゆく。
おかしな話、落ちているときの癒し系作家ではある。
あくまでも、僕個人ではあるけれど。
部屋にある本を半分くらいリストラすることを決意する。
引っ越しの際にそれまでの3分の1を処分したのだけど、それでもまだ、今の自分には多い。
物質的に身軽になりたい欲求が高まっているせいなのであろう。
物をためる代わりに、自分の身体に蓄積させたいのである。
半分は大げさかも知れないが、本棚を一つ片付けてしまいたい気分でいっぱいである。
落ちてはいるが、今日は落ち着きも多少は出てきた。
小康状態か。
20000521(日)
飯店の稽古。
何やかやの用事で遅れる。
現在はいろいろと試しながらの稽古。
飯店の稽古なのに、演出的なスタンスでの参加ではない今回は何となく変な感じだ。
もう少しこってりしてきたら助演出としての役割も出てくるだろうが、今のところはそれほどの役割もなし。
かといって純粋に役者としての参加でもなく、なんというか、微妙である。
今はそれほど時間はないけれど、もう少ししたらアップの時の稽古とかも考えてみるか。
飯店稽古から回帰線の稽古に参加。
そうなのだ。
動くと汗をかくのだ。
汗をかくとのどが渇くのだ。
こちらは初めての稽古なのである。
少しつめこみすぎのスケジュールを反省しつつ、それでもやっちゃう。
ムリできるときにムリをしておきましょうということか。
それとも単なるアホなのか。
多分、どっちも正解なのだけど、前へ前へ。
それにしても仕事が決まってくれない今日この頃。
まずは、そっちだろの自分の声ゴウゴウ。
20000519(金)
1週間か。
少しばかりサボリすぎかもしれない。
身体的にも精神的にもパッとしないここ2、3ヶ月。
精神のグラフは確実に下降線をたどっているのだが、こういうときに限って何かしらの創作へのヒントがあるのも確かだ。
何もする気が起きないので、ふとブラブラと何も考えずにチャリンコを走らせたりする。
意味もなくコトバが出てくる。
しかも、かなり論理的なコトバである。
論理的言語は何も生み出さないが、しかしそこをいじってやることは可能である。
無理矢理そこを突破口にしてみるのもいいのかも知れない。
この比較的鬱な状態の時は絶好の読書期間でもある。
不思議と活字が恋しくなる。
いつものシリーズ物と島田雅彦を読んでみる。
精神状態は何も変わらないけれど、確実にコトバが出てきてしまう。
しかしながら創作的なコトバではない。
論理的言語は何も生み出さない。
生まれた瞬間から死ぬまで数を数え続けたとしてもけっして無限にはたどり着かない。
そこにはなにかしらのジャンプがある。
論理的言語もまた、いくら分析を重ねたところで「こと」にはたどり着かない。
たどり着かせるのは人間の想像力である。
あるいは人間の「生」である。
コトバはそれだけではただの記号であり、音声である。
それがリアルなものとして立ち現れるためには、「私」と「あなた」が必要なのだ。
表現と呼ばれるものの可能性は、そこにある。
もちろん、演劇もしかり。
劇場において「私」(=作品)と「あなた」(=お客さん一人一人)の間に確実に何らかの関係を打ち立てること。
あわよくば、それが「あなた」の「生」を揺り動かすものであること。
それが僕にとっての理想の演劇の姿なのかもしれない。
……なのだ。
何となく、論理は飛躍しているがいいのだ。
適度な飛躍こそ、実感しやすいのだから。
20000512(金)
いろいろなことがあって、いろいろなことがあって、いろいろなことがあって。
時間が過ぎて、そしてまた、ふりだしだから、
この際、ふりだしに戻してみる。
飯店記録とも融合。
どうせ、書き手は同じなのである。
見栄をはらないでおきましょうという小心者の決意表明でもある。
風呂敷を広げてみたり、閉じてみたり。
ゲームがようやくひとつ終了。
1枚のCD-ROMにこれほどまでに時間を費やす。
何かを進めたいという、突破の欲望でもある。
突破の欲望が、次の風呂敷を生み出す。
7月のチケットはすでに発売中。
広げながら、閉じながら。
そうか。
これは尺取り虫の思想である。