L/W 雑記
20000730(日)
いつの間にやら、こんなに時間が経過しているとは……
今は何をか書かん。
金曜日からこれを書いている今まで、ひたすらに思考をフル回転させている。
生活のためのエネルギーも全て、思考に回しているのであるが、何も見えてこない。
しかし、だからこそ、こんな時だからこそ、多角的に全力を尽くして考える考えろ。
ここぞ、余裕である。
自分自身に決断を下すのは、常に自分自身である。
だが、「私」はもっとも自分自身からかけ離れている。
何をか書かん。
むしろ動けということか。
それは言うまでもなくそうで、しかし、「いかに動くべきか」が問題なのだし、究極的にはそこに尽きる。
そうか、演技と同じか。
変幻自在な柔軟性とその根底の核となる魂。
ねばり強く軽快であれ。
とりあえず、眠れ。
20000719(水)
退院はすでに月曜日にしていた。
5週間の別荘生活。
この病気は入院が大切なのではなくて、退院してからが大変なのだ。
一度、入院すると少なくとも一月の別荘生活は覚悟しなくてはならない。
今回はプレドニンの導入に成功。
3度目の正直である。
同時に長期投与も決定。
最終的には5mg〜2.5mgになるとはいえ、長期投与の結果としての副作用を考えると、あまり楽しい気分ではない。
昨日から15mg。来週は12.5mg。少しずつ減量していきながら様子を見ることになっている。
プレドニンは魔法の薬であることは確かなのだが、同時に支払う犠牲もその分量に応じて発生してくる。
副作用のことを考え出すとキリがないが、だからといって急に服用を止めるわけにもいかない。それはそれで、悪い結果になることが目に見えているからだ。……というか危険だからだ。
今のところのわかりやすい結果としては、やや胃痛と若干のムーンフェイス(まぁ、本人じゃないと気が付かない程度)、顔の脂が多め、やや毛が濃いめ、そんなところか。
なんのこっちゃ分からない。要するに薬にも毒にもなるという話。
炎症は抑えられるけれども、その代償も大きいということなのだ。
書きたいことは多い。
久しぶりにキーボードに向かう。
手書きとキーボードの質的な相違はいまだに大きい。
明らかに何かが違うのだけれども、創作的な作業の場合、手書きの方が良いようだ。
ひねり出す感覚とでもいうのだろうか。
キーボードではどうもこの「ひねり出す」感がないようだ。
毎日のように病院生活で考えたこと、どうでもいいこと、私的なことを書いていたけれども、この作業は久しぶりに楽しかった。
公開しようと考えていたのは最初の数日のみ。
あとはひたすらに書きたいことだけを書きたいだけ書いていたような気がする。
もっとも、今回の別荘生活のメインは読書であった。
ちくまの安吾全集全18巻読破。
最終的にはあと1冊を残しての退院となってしまった。
娑婆に出てからの読書はいつも遅々として進まないのが世の情け。
それでも、逆走しての読破計画は功を奏したようだ。
おかげで、安吾のエッセイを全て読めた。
安吾の長編は少ない。しかも、未完の作品が多い。
だが、さすがの坂口屋。
改めて、読ませる作家だと思うのであった。
予想どおり「吹雪物語」で停滞した以外はなかなかのハイペースで読めた。
「街はふるさと」は、よい。
月並みではあるが「夜長姫と耳男」「桜の森の満開の下」は圧巻である。
作家の好き嫌いはどこにあるのか。
僕の場合は文体にあるような気がする。
坂口安吾にしろ、島田雅彦にしろ、月刊グインサーガの栗本薫にしろ、いわゆる名文家ではないけれども、それゆえに惹かれるところがある。
別荘生活ではレポート用紙2冊分、あーだこーだと書いてはみたけれども、そして当初はそれをホームページにアップしようと思ったけれども、どうも、「そういうもの」ではないものを書いていたようだ。
それは書くために書かれたものだから。
自分のために書かれたものは、その当人が時間を経て読んでみて、ニタニタする分にはたのしいけれども、それ以外の用途はあまりない。けれども、他人の日記ほど面白い物はないのも事実であって、これはのぞき趣味とでもいうべきものか。のぞいてなにほどのものが得られるかは分からないけれども、「ホントは見てはイケナイ物」のような秘密めいたところが他人の日記にはある。
だとすると、こうやって日々のどうでもいいことを書いている僕などは露出狂ということが言えるけれでも、人は多かれ少なかれ露出狂だ。
人は一人ではいられない。誰かに認めてもらうこと、それが当人の自信につながる。自分の存在を認めて欲しい。オレという人間が、今ここにいることを知ってもらいたい。そのことが具体的な利益につながるわけではないけれども、それでも、ここにオレという存在がいるということを知ってもらいたい。
書くという行為は孤独な作業ゆえに、どこかにそういう思いがあるのかもしれない。
けれども、同時に人は孤独を愛する。少なくとも、僕は、孤独を愛している瞬間がある。
どうしようもなく、ここに一人という瞬間がたまらなくなつかしく思えるのだ。
この孤独を愛する自分と露出狂の自分は一見矛盾しているようではあるけれども、人間が社会的動物であるということの真理を言い当てているのではないかとも思うのですよ。一人では生きられない存在でありながら、その根底においては一人でしかありえない人間という動物のあり方なのでしょう。
どっちがいいとか悪いとかそういう問題ではなくて、こればかりは仕方がないのかも知れません。いやいや、孤独と露出狂と、その両面があるからこそなにがしかの表現というものが生まれてくるのでしょう。
別荘の記録はしかし、思いついたときにでも書くことにしよう。
退院=病状がよい、というわけではないことに注意。
今回はクローン病という病気について考える良い機会でもあった。
退院は終了ではなくて、むし伴病生活のスタート地点である。
(闘病ではなくて伴病という表現がふさわしいであろう。とはいえ、そのような表現はないのだけど)
再燃と緩解を繰り返し、入退院を短期間に繰り返せば繰り返すほど、スタート地点はその前の緩解よりも厳しい条件となる。
プレドニンの導入により、血液データ的な状況ははなはだ好調だけれども、状況としてはよろしくない。2年前の退院時よりもスタート地点は厳しいというのが正直なところで、この病気の怖いところでもある。
小腸病変の可能性が高くなったことがまず一つ。今までは大腸型であろうと思われていたのだけれども、小腸の方にも潰瘍が出来ている可能性が高い。小腸の検査はなかなかに難しいからそう頻繁に出きるものでもなく、ファイバーで確かめるわけにもいかない。そもそも、ファーバー自体が腸に負担をかけるものであってみれば、極力やりたくはない検査である。けれども、各症状などから小腸にも病変が拡大している可能性が高い。ということは結論として、大腸小腸型であると診断せざるを得ないのである。これで、胃、十二指腸、小腸、大腸、4分野制覇。パンパカパーン。
続いて、大腸バリウムの結果より大腸に収縮が確認される。写真を見て冷や汗が流れる。大腸の一部が確実に狭くなっている。その太さ、太めのウドン1.3倍。内視鏡は通らない。詰まると腸閉塞。手術の可能性も出てくる。外科的な処置は極力避けるのがクローン病のセオリーだから、ここは慎重に様子を見るほかにはない。食事制限を確実にこなして、収縮部分の拡張を待つ。入院は月単位だけれども、こちらは年単位の勝負となる。「食べる」という行為に、さらなる覚悟を要求されるようになった。この病気、潰瘍が偏在するところに特徴があるけれども、病変がある程度は集中する。僕の場合は小腸と大腸のつなぎ目に当たるところ。盲腸の近くである(ないけどね)。
今回は2年でクラッシュということになった。クローン病患者の一度は通る道を、通っての退院。次回、今まで同様の生活をしていたら手術の可能性は高くなることうけあい。よってらっしゃみてらっしゃい。シャレにはなりません。個人的な目標としては3年。まずは、そこか。だが、マイナスからのスタートであるから、短期間のうちに再燃になる確率も当然高くなるわけで、条件は厳しいというのが正直なところ。徐々に追いつめられる感覚というのはこういうことなのかも知れない。まだ、軽い。だが、油断は出来ない、決して。けれでも、あせっても仕方がない。むしろ、適当にさぼるべし。手を抜くべし。どうすりゃいいんだ、そんなこと。前向きに手を抜くすべをおぼゆべし。