L/W 雑記


20000826(土)

忘れた頃に書き始める。

ホームページ周辺をいじってみたり、企画書の手直しをしたり、細かい文書を作成したり。
意識していないときに限ってブランドタッチになっているのは、多少の進歩と考えていいのだろうか。これは必要に迫られたときには、ある程度は適応できるという動物としての本能であると考えるのが妥当だろう。
ようやく、今週になって少しだけ時間に余裕が出てきた。
超級の稽古にも参加し始める。
少しずつではあるけれども、どうしようもなく重たい気分からも解放されるようになってきたようだ。
とりあえずは、いいことなのだろうとかとか。
今日はこれから芝居を観たり、会議に行ったり。
CRPはやや上昇傾向。
予想されていたとはいえ、よろしくない。
自愛の精神も必要である。
人口の比率からいけば1万人に1人の割合でCDの人がいるという計算になる。
札幌の人口は180万くらいか?すると180人くらいはCDなのか。結構いるものだ。
CD増加率も年上昇傾向。
子どもたちのアレルギー症状も何割だとか。
なにかしら、このままのほほんとしてはいられないような、何というか、焦燥感?危機感?
それはずっとずっと先かも知れないけれども終わりの予感なのかもしれない。
世紀末だとかノストラダムスだとか千年至福とかはちゃんちゃら可笑しい部分もないわけではないけれども、けれども、それは種としての潜在的危機感なのかも知れないとは思う時がある。
そんな妄想。


20000815(火)

出来事を書けない。
今がとにかく「よくない時期」なのは確かなのだろう。メインストリートからふと離れてあてどない迷路に迷い込んでいる、そんな感じ。
そうならざるを得ないのだから、そう書かざるを得ないのである。
いやいや、そうでもない。
立ち上がるために何が必要のなのか分からないでいる。
今自分が、立っているのか、座っているの、走っているのか、後ろを向いているのか、はたまた地面にもぐったまま出てこられないでいるのか、それすらも分からない。
知ろうとすると途端に、黒い靄がかかる。
いったい、いつまでこんな状態が続くのやら、皆目見当がつかない。
一人でいるのは恐ろしいが、他人の存在も恐ろしい。
休息は必要だが、同時に活動も必要である。


20000813(日)

いよいよ金がないので、ゴールデンバットに切り替える。
慣れもあるけれど、嫌いじゃない。
ときどきフィルターの切れっぱしとか入っているけど。
会議会議会議。
いったい芝居の稽古はいずこに。
芝居のまわりをクルクル回っているのにいっこうにそのものにたどり着けない。
まだまだ、精進が足りないのでしょうか。
苦しいときこそ笑いが必要だと思う。
かつて僕はノートに「ここぞ笑いどき」と大書した覚えがある。
それから「ここぞ余裕」とも書く。これはしばしばだ。
多分、今はそういう時で、疲弊疲労困憊、でも、だからこそ、余裕かまして駄ボラ吹くのだ。
ある意味、今はチャンスなのよ。
この瞬間をなんとしてでも捉えてやる。
どこを向いてもヘヴィだからこそ、軽やかに飛ぶことが出来るのだ。
とりあえず、どうすりゃいいのかわからんけどね。


20000812(土)

今は日曜日午前6時半。
早起きなのではない。
これから寝ようとするところ。
今までマリア会合にてひたすらに議事録の作成のためノートパソコンをカチャカチャやっていたのだ。
7時間弱の会議で行数にして1600行。
でもね、希望はあるのよ。
空はこんなにも快晴で。
マリアを出ると徹夜でイナダ組のチケットをとらんとならんでいる人たちがいる。
希望はあるのよ。
可能性もあるのよ。
そして、それだけが頼りなのよ、きっと。
突き詰めると、演劇は現代社会に必要か、ということになるのだけど、その理論をもっていれば、それを信じていればいいのだよ。
そのためにできることをしましょうということなのだ、結局。
もしかすると、それはとても青臭い論理であったりするのかもしれないけど、理想って必要だと思うのさ、夢とかね。
ものすごく漠然としていたり、途方もなく巨大だったりするかもしれないけど、少なくともそれに向かうことは出来る。向かおうと意志することは出来る。……なんて、やっぱり青臭いけど、それもいいんじゃない。
どれだけ外に向かおうとするかということなのだろうと思うのだな。
自分たちの作品が、活動が、そして演劇という芸術が。
今はまだ、スポーツ選手が自分たちで大会を開催しているような状態だけど、そして、そうしていかないと開かれていかない状況だけど、いつか、きっと、この活動が実を結ぶ時が来るかも知れない、そうあって欲しい、そうあるべきだと思うのです。
ま、面白いモン作っていきゃあいいだけの話でもあるんだけど、突き詰めると。
いや、その両方が今は必要なのだな。
状況を変えていくことと、面白いもんを作ること。
そこら辺はある意味ではちょっと、いやかなりおかしいことでもあるんだけど、自分たちが、自分が動いていかない限り、変わらないだろうという直感はあるのです。
これは決して大きいことを言っているワケではなく。
作り手は作っていればいい。
それはもっともその通り。
それが本来の姿だ。
でも、演劇というアートを(別に娯楽でもいいです、なんでも)世の中に対してマネージメントしていく人、コーディネイトしていく人が少ないのも事実なわけで、そこら辺なのかな、なやみどころは。
ま、やりたきゃやるがいいさっつーことだよ、きっと。


20000809(水)

坂口安吾はかつて神経衰弱に苦しんだとき、ひたすらに語学に打ち込んだそうだ。
何も考えずにただひたすらに己の意志の力と集中力で、辞書を引いていたそうである。
ハタでみているよりも、彼の心象風景はさらに壮絶であっただろうことが想像される。

もひとつ安吾話。
以前から気になり続けているのは安吾の「青空」乃至は「空」である。
安吾は「空」に何を見ていたのか。
ぼんやりと空を眺めつつ、考えている。
それでも、分からないのだけれど。

「羊」の安吾は安吾は安吾だが坂口安吾ではない。
けれども、何かしら坂口安吾を気にかけてしまう。
上の考察は「羊の安吾」に対する演出上の考察ではないけれど、きっとどこかで、舞台の安吾につながるような気もしている。
リーディングであれこれと考えた「羊」像を、今一度チャラにしてしまおうといいうのが、とりあえずのコンセプトである。
テキストを舞台の台本としてフラットな感覚で読んでみること。
そこに、新しい発見というか、そこにただあるだけの、あっただけの「何か」があるような気がしてならない。
そういう意味では11月の「羊」はまた、新しい「羊」であり、変わらない「羊」であるのだ。

ただ行動の原理に基づいて動けるように動けるように。
今はそう思い続けるしかない。
肉体的な疲労も、精神的な疲弊もすべて。


20000802(木)

しんどい。
でも、何かを書こう。
疲弊の果てにはナチュラルハイがあるのだが、まさにその状態。
しかし、これは高揚感があるのみで、実際的には何もできない。
僕はよく自分自身に対するコトバで「戦う」という単語を使う。
ハーフマラソンを100メートルのスピードで走っているのが、今かもしれない。
絶対に突破してやる。
今が何かにつながるかどうかは分からないけれども、それでもとにかく突破するしかない。

入院している間、僕はここのことを考えていた。
僕はここに何を書いているのか。
何を書いてきたのか。
そして、こうも思った。
書くしかない。
その時に思ったことを書くしかない。
相手を考えずに書くしかない。
僕は何かの「作品」を書いているわけでもないし、誰かに向かって書いているわけでもない。
いいじゃないか、それでも。
いや、待てよ。
それは責任放棄というモノじゃないか。
うーん。
個人会議。

僕は人間が好きだけれども、人間が嫌いだ。
自分の支離滅裂ぶりをなつかしく思うけれども、嫌悪もしている。
病気というものと向き合ったときに思うのは、自分の肉体のことを最も知らないの自分自身だということだ。「私」が「私」自身から疎外されていると感じるのである。だからこそ、書くのか?
自分は何者だろうなんて思い悩むのはとても青臭くて泥臭くてこっぱずかしいんだけれども、「いいんじゃない、別に。好きにすれば」なんて思ってみたり。
何を書いているのでしょうか、すっかり意味不明ですな。
酒は飲んでませんよ。こんな夜中に、もう少しで明るくなるというのに僕はカロリーを補給して、無理矢理眠るか、無理矢理起きているかをちょっとだけ悩んでみているのです。

今の自分の身辺のことを書こうと思ったら、書けないことだらけのような気がしてきた。何がそうなのだろうか?書いてもいいような気もするんだけど。うーん。情報として機密であるということではなくてね。ひとつひとつがいちいち重いからかなぁ。「それほどのモノか、オレ」という思いがあるのか?一生懸命でありたいということなのかな?よくわからず。
休息が必要なのですな、きっと。
そして、オレは病人なのだという自覚も必要なのですな。
月曜日の血液データが恐ろしいな。
せっかくの緩解導入も、ここ数日でパァかもしれないな。
いいさ。よくないけど。
ちょっとお休み。そして全力ダッシュ。