L/W 雑記
20000930(土)
時々あるんだ。
リポD&コーヒー飲むタイミング間違えて眠れず、ワケの分からないときに猛烈な睡魔に襲われることが。
そのパターンを今日も踏襲しつつ、結局眠れず起き出してエレンタールをまとめて作りパソコンに向かい、考え事をしながらネットのよどみをフラフラと歩いてみる。
かつて朝刊がドアの隙間にはさまれた瞬間に引き抜くということをしばらくしていた。
さぞかし新聞配達の人はびっくりしていたのではないだろうか。
ごめんよ。
ゆっくり考えたくて間を取ったのだけど、やはり結論は変わらないし、眠れない頭は勝手にアイディアをひねり出そうと動いたままで止まらないし、昼までには一つ報告を書かなくてはならない。
ドラクエを買ってはみたけれど、1日30分という小学生並のスケジュールで進まず、しかも宿屋にはいるとフリーズ、ボスを倒すとフリーズ、はぐれメタル倒してフリーズ、ドラクエ系ホームページを覗くと「フリーズ情報」なる掲示板があり、次々とフリーズ情報が寄せられている。
プリンターの調子が悪い。
時々暴走する。
またインストールし直さないといけないか。
これで何回目か。
タバコを吸い、そしてぼんやりと考え、一人。
ローマは一日にして成らず。
最初の一歩を踏み出してみないことには、ゴールは見えてこない。
結局は信じて進むしかない。
20000916(土)
はや、一週間。まだ、一週間。
もう少しこまめに書いてみるかと呟いてもみる。
唐突に始めてみる。
「人を殺すことがいけない理由を説明しなさい」
例えば、こういう切り出し方。
「所有」という観点から。
命を与える、命を奪うという表現に議論のとっかかりを持っていってみる。
「与える」「奪う」という表現が意味するところ、それは命を所有物を見なす考え方である。
「あなたの命いただきます」は「あなたの所有する命を(他者である)私がいただきます」と翻訳することが出来る。
「人殺し」とは、本来自分の所有物ではない他者の命を奪う行為である。
許可なく他者の所有物を奪う行為は、当該人物の所有権を侵害するものである。
「権利の概念」について考える必要がありそうだ。
……ここで一服。そして、疑問。
所有という観念で考えるとすると権利も所有物ではないか?
所有とは「私は○○を持っている」という言葉で表現できる。
「私はリンゴを持っている」とはリンゴの所有を表現し、
「私は命を持っている」とは命の所有を表現する。
「私は権利を持っている」とは権利の所有を表現する。
ゆっくりいこう。気長に、一つ一つ。唐突な思いつきだけれども、ゆっくり慎重に。
つまりきっかけはこうだ。
「人体実験をすることは許されるのか。許されないとしたら倫理的・論理的にどのような理由からか」
むしろ、ハナからそこから始めた方がいいのかもしれない。
「いかなる理由があろうとも許されない」と答えることは単純で簡単だ。
「決断を迫られたら、その時に考えればよい」とは、人生の教え。
まるで論理的ではない思いつき。
「権利の概念は所有の観念と密接に結びついている」
あれ?なんかこの議論、どっかで読んだぞ。
そして思う。
他人の言葉と自分の言葉について。
20000909(土)
……ってゆうか、ねろよという時間なのでもあるけど、クールダウンも必要です。
雨に濡れたり、頭を抱えてみたり、エレンタールを作りおきしてみたり。
じーーっくりと考えている余裕はなくて、けれども答えをどこかで見つけださなくてはいけなくて。
そんな感じ。
どこまで突っ走れるかわからないけど、突っ走るしかないでしょう。
行き詰まれば、考えるしかありません。
「悩まないで、考える」とは西武の松坂投手も言っております。
ちなみに松坂投手の祖父母は稚内の人。
馬鹿なことを言ってる場合ではなく、明日はバトルシアター2日目&フィナーレ。
ある意味でフィナーレの方が緊張するかも知れませんです。
スポーツマン的に考えるならば、出るからには勝たねばいけません。
その前には全力を尽くさねばなりません。
その前にはハッピーでなければなりません。
……ということを1日目終了後の読書で感じたのでした。
元卓球少年、明日も頑張るのみ。
高校の時のユニフォームは蛍光ピンクでした。
ジャージは蛍光紫。
試合会場で目立ってしょうがない。
最後の試合は同じカットマン同士の対決でした。
試合の終わらないこと甚だしく、最終セットデュースの応酬の末、負けたのでした。
甲子園で負けないのは1チームだけ。
ふと気付くと、会場内で試合をしているのは我々だけ。
集中力ですよ、結局。
左足を一歩下げ、重心を移動し、ラケットを構える。
その集中力が切れた瞬間、相手のスマッシュが決まったのでした。
だから、もう、負けない。
20000908(金)
ERはよい。
TVだから出来ることがある、映画だから表現できることがある、漫画だから言えることがある。
演劇だからできることとは?
提示しようと思うところは変わらない。
その表現手法の問題だ。
ERを舞台化することはできないが、ERの提示するものは舞台でも提示できる……はずだ。
作り手が捉える世界を出来る限りの形で表現することが、表現の表現たるゆえんであると考える。
ゆえに表現は個的なものなのであり、誰にでも分かる、誰とでも共有できるなどというのは幻想に過ぎない。
だからこそ、逆に誰に対しても開かれているとも言える。
我々が世界の中の存在である限り、世界を描く行為は誰にでも開かれており、それに出会い触発される機会もまた開かれている。
最大公約数が芸術の公共性につながるわけではない、むしろ個的な世界観こそ芸術の公共性なのだ。
だから、趣味の問題であると片付けることもできる。だから、より広がりを持つこともできると言うこともできる。
演劇を必要とする人がいる限り、演劇はなくならない。
明日・明後日はバトルシアター本番。
僕は僕であればよい。
そこからしか始めることは出来ない。そして、常にそこに行き着くのだ。
必要なのは己を知り、それを出来うる限りの作為をもって描ききることだ。
それを突き詰めたときに初めて「真実」を見つめることが出来るのかも知れない。
相対主義的絶対主義とでも言うべきものか。
道のりは果てしなく、終わりがない。
ふと、中世の神学者のことを考えてみたりもする。
この2日で原稿2本。
今の課題は読書の時間の確保だ。
20000903(日)
微妙に。
微妙になにかしら忘れていたり、ポカしたり。
最近、スポーツマンの名言集みたいなものを読んだけれど、意外とこういうときには響いてくる。
日曜日の楽しみは「情熱大陸」「世界遺産」。なぜか観てしまう番組だ。それでもテレビ画面を見ている時間はここ2、3ヶ月でだいぶ減った。
本日は3つの稽古。
なにかいい感じで自転車で帰宅する。
自分のところの稽古場に行くのが楽しみだ。
よい傾向である。
明確な方法論はないけれども、模索はしている。
そのためには質であり、量なのだ。
何か片鱗でもつかめればと今回の意気込み。
飯店は「いつか戻る場所」となるとよいし、今、僕にとってはそうだ。
一番楽しい遊び場になればよい。
現在進行形の自分を確認する場所であればよい。
20000902(土)
眠るという感覚はあまりない。
むしろ気を失っているのに近い。
眠れないよぉとだらだらしているよりはいいけれども、なにかしら楽しみであってほしい睡眠。
人間だって動物なのよ。
昔、はやった岸田先生のように、本能は壊れている!なんて声高には叫べないのだ。
「ものぐさ精神分析」は読みやすいので好きだったりした。
でも、それだけの理由であったりもする。
やっぱり本能っつーか、3大欲求は満たしていこうぜという姿勢は大切だ。
とりあえず、今気になっているのはデパート。
理由は苫小牧であかされる……かも。
明日から、いや9時間後にはバトルシアターのワークショップスタート。
プランをさらと出すには、いかに舞台で楽にいられるかかもしれないと思う今日この頃。
頑張らないことを頑張ったとき、ふとその人間が見える。
意図せずに見えてしまう「人間」が面白かったりする。
それは偶然の所産のように見えて、実はその役者の日々の積み重ねの結果であり、舞台上でふと存在し、すっと立てるという技術の成果なのである。
必要なのは手の動かし方とか、表情の作り方ではなく、佇めるその「あり方」なのだ。
あらゆる作為の果てに、何者でもありえ、かつ何者でもあり得ないその「人間」が浮かび上がる。
ソウイフヤクシャニワタシハナリタイ。
理論と技術とセンス。
かつてある人から演出に必要な条件をそう聞いたことがある。
なるほど。
20000901(金)
ラジオへ、観劇へ、居酒屋へ(除:酒)。
何となくオフな気分。
本も少し読む。
2日で1冊くらいは読みたいものだ。
ぼーんやり考えてみたり、焦ってみたり、けれども動かないことには始まらないので、まずは眠ることにする。
人生はいろいろだ。