L/W 雑記


20001031(火)

001021思考実験への一つの反応。論理的な整理をしてみる。
きっと、きちんと論理学的な解釈やら書き方が可能なのだろうけど、勉強不足。
大雑把には、こんな感じか。
まずは24世紀問題を解決しよう。

私は痛いと感じている。……感覚
この「痛み」の感覚は私の脳で処理され認識される。
同様に他の感覚も私の脳で処理され認識される。
また、全ての知識や観念も脳によって処理されている。
ゆえに、私の感覚や知識や観念は全て私の脳で処理されている。
(感想:本当に粗いな)

私の脳は電気刺激その他あらゆる科学的処置により操作することが可能である。
ゆえに「私の感覚・知識・観念」が私にとって真であると錯覚させることが可能である。
また、ここから私の脳が24世紀にあり、私が20世紀の「いま・ここ」にあるということを錯覚させられていることを否定することは出来ない。

ここまでは前回の思考実験を整理し直したもの。
ここからこれをひっくり返す。

私の脳は操作された結果、錯覚させられている。
「私の感覚・知識・観念」は操作され、錯覚させられている。
ゆえに「私の感覚・知識・観念」は全て偽である。

「私の感覚・知識・観念」は全て脳で処理されている、という命題は「私の知識」を示している。
同様に、私の脳を電気刺激その他あらゆる科学的処置により操作することが出来る、という命題もまた「私の知識」を示している。
以上、2点は「私の知識」であるがゆえに偽である。

以上の2点が偽であることから、
「私の感覚・知識・観念」が私にとって真であると錯覚させることが可能である、という命題は偽となる。
それゆえに、私の脳が24世紀にあり、私が20世紀の「いま・ここ」にあるということを錯覚させられている、という命題も偽となる。
これは、『私の脳は捜査された結果、錯覚させられている』という命題と矛盾する。
ゆえに、上の命題は偽である。

以上、ウソくさい証明終了。
きっともっと論理学を真面目に勉強していれば、論理記号を使ったりしながらスマートな証明が出来るのであろうけど、今はこんなもんです。
あ、でも、一応、背理法。
これで僕の脳味噌は無事20世紀に戻ってきた。
おかえり。
考えた。事実とは何か。知っているとは何か。

しかし、今、必要なのは稽古場のテンションと作品の仕上がり。
「太陽は東から昇る」は事実か、知識か。
「太陽は東から昇る」を真であるとする論理的根拠は何か。


20001027(金)

CRPは1.4まぁ、再燃の疑い高い。
腹痛、CRP、熱、+何か出てくれば確実に再燃!といったところ。
なーんか寒いなと思っていたらどんどこ熱が上がっていく。
日中はずーっと微熱でいやな感じ。
それでもラジオだけには行く。
最終回だから。
しかし、今週末、明日と明後日の稽古以外は養生することにしよう。
今、倒れるわけにはいかない。
どうにかしないといけない。
でも、どうにかするには時間が必要だ。

こういう朦朧としたときに論理学の本を読む。
不思議な感覚。
思ったよりも頭に入ってくる。
かえって論理への壁が低くなっているのか。
ちょっと面白い感覚。
そして、夜が更けるにつけゾクゾクする感覚。
なーんとなく、39.0度にはいきそうな雰囲気。
うーん。
金曜日はアリー→Xファイル→スタートレックと黄金コースなのに。


20001025(水)

はらいた継続中。
稽古も休む。
この時期に稽古を休むのは痛いのだが、おそらく稽古場まで行くことも難しいであろう。
家にいる間はいけそうな気がするが、外を歩く、自転車に乗るなどするとその振動が腹に響くひびく。ついでにウェーブも押し寄せる。うーん。
明日の病院での検査結果がどうなるか……
固形物を食べたいけど、怖くて食べられないし、きっと少し食べて「もういいや」となること間違いなし。
とりあえず、昼間は少しは頑張る。
0:00を過ぎたら何もしない。
最低でもこれくらいはキープしないとダメでしょうという感じ。
腹部の圧迫感は多少軽くなった。
胃の下の部分と小腸のどこかと大腸下行結腸部あたりがちょっとってな感じ。
特に大腸に関しては確実に狭窄部位があるので危険だ。
……と、痛くなると再認識。
閉塞はしていないだろう、きっと。
もっと痛いと思うから。
でも、狭窄は進んでいる可能性はある。
うーん。芝居を観る前にまずは病院へ行けだな。
と、病人日記のL/W。

今読んでいるのはお医者さんの闘病をレポートした本。微妙に面白い。
というか、今の自分にリンクする部分もあるからか。
もっとも、僕はお医者さんではないけど。


20001024(火)

久しぶりにわかりやすい形で調子が悪い。
腹部の圧迫感とそれに伴う腹痛、嘔吐感、下痢および下血。
とはいえ、修復可能な範囲であろうとも思われる。
胃および十二指腸がメインの症状であれば対応可能。
これが小腸〜大腸になれば、ホントにやばい。
今回は胃症状が大きいので、少し養生すれば大丈夫だろう。
とか、言いつつ、稽古→会議と休まるところがない。
それでも、日中ははやる気持ちを無視して、じっくり腹痛と向き合う。
結構、あきらめるしかないときは、本当にそうするしか対処のしようがない。
ひたすらに黙ってうめいているのが結局は一番よいのだ。
おにぎり一つとエレンタールを飲めただけでもかなりの回復。
明日は、もう少しよくなるはず。

演出をしているとき、ここにいかなるコメントを書くか、悩む。
いいことを書くと宣伝になってしまうし、悪いことを書くとグチになる。
好きなように書けばいいのだけど、そうもいかない。
これは一般論として書くのだけど、個々の構成員が集団に頼るようになった瞬間、その集団はなれ合いの内輪のみの集団に成り下がる危険性を持つ。
そうならないためには、個々の構成員の自立が必要で、実力の如何を問わず、「そこに立つ」気持ちは必要であろうと思うのだ。

はらいたながらも少しだけリフレッシュ。
あとは読書をして寝るだけ。
なぜか手元には病人関係の本。


20001023(月)

自らたてた思考実験に没頭する暇もなく、月曜日、ややダメな感じ。
週に一度はおなかの痛い日がある。
多くは月曜日だ。
これは少年時代からの週間のようなもので、曜日感覚がなきに等しい現在でも、月曜日に腹痛が集中する。
腹痛よりもなんとかしたいのはこのダメ感覚。
眠れぬ夜に急に思い立ったかのようにわき上がり、覚醒とともに流れてはくれず、なぜかしっかり残っている。
もはや腹痛は存在の証明というよりも、現実感乖離のスウィッチに等しい。
やはり病人感覚はどこか現実感を引き剥がそうとするようだ。
病気のことを知らなければ、「えいや!」で乗り切っているようなことが、頭ごなしに病気に押さえつけられる感覚。
気の持ちようさ。
確かにそうかもしれない。
しかし、それは「健康」な人の放つ発言であるということも知っている。
病人であることを意識するたびに覚える軽い絶望感と、もう少し仲良くする必要はある。
しかし、この感覚はボディーブローのようにきいてくる。
クローンと分かったときは意外とさっぱりしていたはずだ。「こいつ」との付き合いが、一過性のものではないと意識すればするほど、ため息が多くなる。
断ち切ることは出来ない。けれども、うまくやる必要はある。

そして、公演に向かうこの時期の不安感もあるのかもしれない。
もう少しすれば、開き直ることが出来るはずだ。

わたわたしている時の方が読書は進む。
この週末から1日1冊のペース。
島田雅彦と精神科への簡単な入門的な文庫と高校生の性に関する新書を読む。


20001021(土)

てんやわんやしている時に限って、あれもやりたいこれもやりたいと思うけれど、時間が出来るとそこでダラダラしてしまうのは、しかし、健康的なのかも知れない。
時間に余裕のない時に他のことを考えたり、ついつい手を出してしまうのは、ある意味で逃避的行為なのだけど、そこでリフレッシュしてメインに戻ることが出来るならばそれはそれでいいのだ。結果として、いろいろなことが進んでいたりするし。
言い訳か?
いいわけだろう。

さて、ある思考実験に対する議論をどこから始めるかと思っている。
脳味噌の謎。
・我々が外界から受け取るデータは脳で処理され、そこからの伝達により我々は外界を「感じる」。
・とすれば脳に何らかの刺激を与えることで、あらゆる「外界からのデータ」を作り出すことも可能である。(これは論理的可能性でもあるけれど、すでに実際そのようなことは行われている)
・以上の前提に立つと、次のような状況を想定することも可能であろう。
「実は私の脳は24世紀のとある研究所にあり、そこで私の脳にあらゆる処置が施され、私が”いま・ここにある”ように感じさせられているのかもしれない」
・これはある意味で典型的唯我論のヴァリエーションであると考えられる。この懐疑的唯我論に我々はどう応えるべきか。(唯脳論ってどんなんだっけ。おせえてようろうのたき)

すべてのことを言語化することは不可能だ。
コトバを吐き出した途端、吐き出されなかったコトバが生まれる。そして、そちらの数は無限だ。
行間には書かれなかったコトバが渦巻いている。


20001011(水)

ぼんやりと考えているうちにふと気を失い5分経過。
こんな時にはとっとと布団に潜り込んでしまうのが唯一の方法なのだけど、それでも、何かが「もう少し」とささやく。
そのささやきに耳を貸しつつ最後の一滴まで己を覚醒に提供する。
何のために?
答えはない。
ただ、何かをしている自分がそこにあるだけだ。
それでいいのだ。
今で精一杯。
希望はあるけれど、先々のことを考えている余裕はないし、考えるつもりはあまりない。
それではだめかもしれないけどそれでもいいのかもしれない。
きのうのつづきできょうがあってきょうのつづきであしたはあるけれど。
4時間後に目覚めようと決意しつつ、今日は店じまい。


20001006(金)

折角書いたものがフリーズでとんでしまう。
ここには中学の私がいたはずだ。
戻ってみると何も残っていない。
結局、と帰りの自転車で思ったこと。
ダンスを見て高揚感があるのは、嫉妬なのだ。
あまりにもアメーバ的に伸びゆくその肉体への嫉妬。
映画への嫉妬、ダンスへの嫉妬、芝居への嫉妬。
つまりはきちんと舞台に立たねばということかもしれない。
無言で交わされる肉体の交感に嫉妬してみたり、高揚してみたり。
しかし、思い出すのは中学3年の合唱コンクールであったり。
まずは休め。明日は明日。
不気味な充実感と闘争心と不安感と高揚感と臆病と自信とワガママと。


20001003(火)

この時期になると演出、不安になります。
1ヶ月前と小屋入り前と小屋入り後の演出は眠れないのです。
役者をしているときの1ヶ月前と演出の1ヶ月前は随分気持ちの志向性が違っていて、役者の私は割と呑気というかあまり何も考えず、もっぱら台詞だの演技プランだのの事ばかりを考えているのですが、演出の私というか満天飯店店長の私はなかなかに気の休まる暇もなく、一番恐がりの時期に入ります。やがて、1週間もすれば開き直り、後は前に進むだけなのですが、今はちょっとアレです。
最近、痛感するのは肉体です。いかにして稽古場で共通の身体性を獲得するか。何となく今までもぼんやりとは想像していたことが、ようやく言語として頭の中に立ち現れてきた感じです。共通言語も必要だ。けれども共通の認識下における身体も必要なのだ、と本当に痛感する毎日です。身体性に関して共通の言語で稽古場で話が出来るということの大切さを、しみじみと、嘘、ガッツリズキュンと思い知らされるのです。
そして、演出としての自分の未熟さをひしひしと噛みしめたりするのです。
けれども、一方で訳の分からないくらい確固とした自信もあるのですよ。
自分といかにきちんと向き合えるのか、そして他者といかにきちんと向き合い、関係性を作ることが出来るのか。こればかりは芝居を作っているときの核となる部分なのでしょう。
……なんてな。

とか書いている一方で、劇場を考える会の議事録を整理したりしてみる。
議事録はノートパソコンでとっているが基本的にはすべてひらがな。
変換している間がないから仕方がない。
それをまずは全て漢字に変換し、議事録として多少整理する。
その後で全体を通したまとめを作成する。
これは能力の問題だけど、実際の会議時間の1.5〜2倍の時間のかかる作業であったりする。
ある意味で単純作業だから、苦ではないといえば苦ではないけど、テキストにして1000〜2000行のひらがなと向き合うのはなかなかに骨の折れる作業だったりする。

あまりよい性格とは言えないのだけど、僕は自分が手を着け始めたことをなかなか他の人に渡せないようである。
全部、自分でやっちゃいたくなる。よくない。これはよくないのだ。
気を付けましょう。