L/W 雑記


2004年4月24日(土)20:35

さて、これを書く頃になるとほぼその日のことをだいたい書き終わった後なので何も書くことがない気がすることが多い。
で、何も書かないでいいかと思ってとりあえずパソコンに向かってみると、とりえず数行から書き始められ、なんだかんだと無駄な長文になっている。
別に何かを考える訳でもなく、かといって自然にというのはあまりにも不自然なのだけど、ほとんど手で考えているようなものだ。
頭は漢字の変換用の回路を使っているようなもの。
そういう意味では手書きの日記に近いのだけど、やっぱりちょっと違っていて、なにかしらの制約がある、ろいうことは前回書いたことか、多分。
今日は一日調子が悪かったわけで、今も別に良いわけではないけれども、こうしてパソコンに向かって何かが書ける状態までになったということは、昨年の一番ひどい時期に比べれば格段に良くなっているということなのだろう。
勿論、薬の効果があるからだ。
SSRIってやっぱ効くのだなぁとまさに体感しているところ。
これでプロザック辺りが日本でも認可されたらまた少し鬱に対する対策が出来るわけで、対策が立てられるものはなるべく早く実用化できるのが望ましい。
クローンの方が頭打ちなだけに、メンタルの方だけでももっとバチッと画期的な薬があることを望みたい。
ま、ココロの病気と言われるけど、要するに脳味噌の活動の問題でもあるわけだから、身体の病気でもあるわけだ、ただヒトの精神構造や思考、想像、意識や無意識について科学的に解明されていないだけなのだから。
とはいえ、これらが完全に解明されたら、自由意志というものは果たしてなくなってしまうということなのだろうか。
決定論と自由意志論は対の概念だけれども、本当の本気で全てが科学的に解明されたら、何が見えてくるのだろう。
覗きたいような、見たくないような、興味と不安が同時に現れる。


2004年4月22日(木)22:37

手書きのノート(日記とは呼べないけどそのようなもの)とこことの違いはあるようでないようで、ないようである。
手書きのノートはとりあえず支離滅裂だし、その時々の思いつきを羅列していたり、まぁ、あんまり人に話すような内容じゃないこともてんこ盛り。
つまり日記なわけなのだけど、ウェブですべてをさらすのはゴメンだし、意味を感じない。
これはあくまでも公開を前提とした雑記であり、たとえ書いていることが滅茶苦茶でどうしようもなくて無味乾燥で全くの自己満足だとしても、にもかかわらずやはり他者に対して一応は開かれているのだ。
とはいえ、手書きの日記が全て私という存在を映し出しているかと言えばそうでもない。
やはりそこにも書き得ない何かがある。
誰も読むことのない日記なのにそれでもそこには語られない何かがある。
どこかでセーブがかかっているのだ。
自分では意識していないのだけれども、書いていてつっかえるときは何らかのセーブがかかっていると考えているし、たまーに「ああ、そういうことか」とセーブの内容を納得していたりもする。
これは私の中の他者にさえ読ませたくないようなココロのヒダがあるということなのだろう。
だから手書きの日記でさえ自らの鏡にはなり得ない。
それはただの記録である。
どんなにプライベートなことを書いていたとしても、どんなに心情を吐露していても、それは私という存在の全てを映し出しているわけではない。
これは言葉の有する問題ではなくて、自分の中の自分自身の壁のようなものだと考えられる。
思考ごっこのすみにもひっかからないようなことなのだけど、それでもセーブがかかるということは、よほどそのことを書きたくないという無意識が働いているということなのだろう。
それはやはり言葉の限界なのか、それとも私の意識の限界なのか、あるいはその両者なのか、それともまったく別の要因があるのだろうか。
そう、例えば、今、この場で死んでしまったら、この内容は読まれたくないなぁと考えていたり。
これは割と明確な理由なのだけど、だったら私的日記など書かなければよいということになる。
あくまでも書きたいという欲望から発生した手書きのノートだけれども、何か違和感は感じているのだ。
書いていて、それはそれで満たされているというか、まぁ、楽しいというか、否々、書くべくして書いているのだけど、しかし、何かしらの不満が残る。
その正体を知りたい。
でも、別に知らなくても支障はない。


2004年4月21日(水)22:18

今日は一応他の2カ所には書いたので、夜のウェブ書き物はここで終了。
というか、流石に3カ所で書いていると、手書きのノートの方に書くことがないというか、本当に1日中書いていることになってしまいそうだ。
久しぶりに演劇の稽古なるものに参加した。
まぁ、よくも今の体力で参加したものだと思うが、ダメだなすぐにバテてしまう。
それでも体調と精神状態の許す限り出稽古は続けようかと思う。
ヒステリック+酸性アルカリ派だけではなくて、他の所にも出稽古に。
で、疲れて適当に書き物をしてすぐに寝るか、風呂に入って寝る程度に。
今は一演じ手であるのが心地よい。
演出としての村上は良い。
というか、彼女なりの強固な演劇理論を展開することが出来て、それが実践できればかなり良い演出になると思う。
センスもあるし、役者を育てるという側面では良い。
そういう意味では劇団の演出に向いていると思う。
もしくはそれなりに固定のメンバーを常に使うとか、常連役者を使って、さらに新しい人とも組んでいけば、なかなかいない演出になると思う。
別にここでおべっか使っても仕方がないから、これは真面目にそう考えているのだ。
逆にいえば、より演劇経験のある役者をバラして再構築するには適材であるかもしれない。
100人演出家がいれば100通りの演劇論があるから、ボクの考えとは違う部分もあるけれど、それはまた別の問題だ。
役者はいい演出に巡り会えるかどうかでその後の演技の在り方や、演劇との関わり方が変わっていく存在だ。
ま、とにかく疲れたわ。


2004年4月21日(水)01:28

最低限遅くともその日のうちに眠ることにしているのだが、ここ最近ズレ始めている。
別に夜型生活をしても構わないのだけど、昼型の生活をしている方が体調は良いように思われる。
いや、夜型でも要するにリズムの問題なのだ。
しかし、昼型の方が睡眠については楽である。
暗くなったら眠くなるくらいの状態がなんだか本当に調子が良いように思われる。
結局、人間も動物で暗くなったら寝て、明るくなったら起きるのが良いのだろう。
24時間稼働して何が生まれてくるのか、何が進歩するのか、何が幸福になるのか、分かったもんじゃない。
むしろ人類全体としては不幸な方向に向かっているとしか思えない。
どうしてヒトという欠陥動物が生まれてしまったのか想像もつかない。
それは自分がヒトだからだ。
高い次元からヒトを観察することは出来ないから、たとえば動物行動学などは一つの助けになる。
欠陥ではない部分からヒトを洗い出してみるというのが動物行動学の目指すところだと勝手に考えているのだけど、実際に目指しているのは何かは分からない。
ヒトのこの欠陥が可能性なのか、それとも単なる遺伝子のイタズラ、ミスなのかは分からない。
しかし、欠陥動物であることには変わりはないし、ましてや地上の支配者などではあり得ない。
破壊するだけして、消費するだけして、何も生み出さない種族。
それが今の人類の姿だ。
あるいは文明の姿だ。
「個」としては完結できる可能性はあるのかもしれない。
しかしそれは自己満足の自己完結に過ぎない。
それは一つの幸せの形ではあるが、ヒトとしての欠陥性を超克したということにはならないだろう。
哲学はヒトの限界を探る」作業であると思う。
それが論理哲学論考の「語り得ない事柄については沈黙しなければならない」という結論になるのであろう。
いわゆる後期ウィトゲンシュタインにしても結局は「語り得ない事柄」の限界点を探る作業を重ねていたのだと思う。
ボクがこれから学ぼうとする心理学は逆に欠陥を一種の幻想で埋めていく作業のようなものだと思う。
あくまでもそれは対処療法に過ぎないのだけれども、それでもヒトの欠陥を補完する代用としての役割は多少なりとも果たすことはできるだろう。
心理学と哲学による相互の相対化。
その結果に何が出て来るのか。
それを追いかける能力があるいは時間がボクにはあるのか。
だが知ったことか。
追いかけると決めたら追いかけるだけだ。
演劇もまたしかり。


2004年4月20日(火)15:05

書かないなんて表明してこうしてこっそり書いてみたりする。
たまに誰かが発見して、物好きな方が読んでくれたりするのかもしれない。
gahも飯店もあるのに、わざわざまたこうしてここで書く必要性はほとんどないのだけど、それでも吐けるだけの言葉は吐いておきたい気持ちが今はある。
衝動という強いエネルギーの発露でもなくて、記録という意味合いもやはり薄くて、ただ、他の雑記では書かないようなことを書こうかとかそういう秘密めいたことではなくて、きっと同じネット上でも、なんらかの読者を想定した雑記があるということなのだ。
もともと、こうして書くことには疑問を抱きつつも続けてきたわけだが、まぁ、それはそれ、ヒット数だけが全てではないのだ。
自分のための言葉を公開している、いわば、落書きのようなものでもあり、バカバカしい自己存在証明でもあるのだ。
それでもよい、という開き直りがようやくできるようになったということなのかもしれない。
とはいえ、L/W自体は別の形態のサイトへと変化させようと思っている。
なーんにも思い浮かばないのだけれども、ま、日記ってことはないでしょ、もう。
というかこれ以上電脳上で書きたくもないワケで。
家でひっそり手書きで妄想を楽しみたいという願望もあるし、せっかくだらだら過ごせる日々が与えられているのだからダラダラを有効に活用したいものだ。
まぁ、なんというか自分なりの人格の整理をしようという試みなのかも知れない。
あるいは文体の整理か。
飯店的テシロギとgah的テシロギとここでのテシロギは共通点は山盛りでもやはりなにか別人格であるようだ。
書いているスタンスや、書く内容も異なるだろうし、少なくともここでは説明的補足的な文言は生まれてこないだろう。
本当に思うがままのその瞬間だけを捉えてみたりとか、あるいはいい加減な戯れ言を書いてみたりとか、妄想を言葉にしてみたりとかつまりこここそが無法地帯なのだ、きっと。
HP更新ついでに今までの雑記をさらりと読み返してみたが、鬱状態の時は明らかにあったんだなぁと改めて実感した。
気付かなかったのだ。
その意味では近くにそういう症状の人間がいたということは治療への導きになったということができるのかもしれないし、臨床心理士を目指すキッカケにもなったわけで、それはそれで結果OKということになるのだろう。