雑記
1999年12月分
19991227(月)
昨日から「ぐぅ」の稽古始まる。
これから3月まで10才の「ぐぅ」と付き合うことになる。
新しい出会いもある。
どんな舞台になっていくのか楽しみでもあり、また責任も感じる。
それはいつものことではあるのだけど。
飯店の方もある。
その他、いろいろと来年は変革の年になりそうだ。
どうなるかは分からないけれど、なにかしらその場その場で吸収していくしかあるまい。
19991224(金)
いろいろなことのうち、とりあえず12月の目玉は一つ終わり。
今は、かなり停電気味。
停電しながら、それなりに回路を復活させつつ、来年につなげていかなければ。
そういう意味ではワタワタとした年末になりそうな予感。
世間の皆様ほどのワタワタではないにしろ、自分が関わっていることが複数動いていて、それをまずは整理することから始めなければいけないということか。
19991221(火)
とりあえず終了。
明日の午後には提出の予定。
ようやく何か一つのケジメをつけることができるかもしれない。
……それにしても長かった。
どのような形であれ、来年からは少し大きく生活が変わりそうだ。
まずは一つの結果。
これが次の結果につながるかもしれないという希望を残して。
それもまた、よし。
これで終了。
それでも、よし。
とにもかくにもプリントアウト開始とともにどっと疲れが出てしまった。
おそらく「書く」という作業からの疲労感ではなく、なにかしらのストレスからの解放なのであろう。
しかし、まだ気は抜けない。
とにかく、明日。
打ち上げの一杯を飲むには、胃の調子が悪すぎるか。
はい、ご苦労様(暫定版)。
19991220(月)
折り返せるかどうかの瀬戸際。
そして間に合うかどうかの瀬戸際である。
腹痛は何とかおさまる方向へ向かっているようだ。
少しずつだが集中力も戻りつつある。
そして普段は滅多に思わないことだが、脚本を書きたいという欲望に駆られる。
「演劇とは何か」という命題をひねり出す作業はなかなかに面白い作業ではあるのだけれど、一作り手としてはむしろ作品を創りたいという方向に意識が向くのであろうか。
なにやら大仰な事件が起きなくてもよい。
とっぴなキャラクターが出てこなくてもよい。
ただ、そこに、あるようなそんな作品を書きたいと思う。
おそらく「20世紀ファックス」のような方法論を取り入れた作品になるのではないだろうか。
……とはいえ来年の満天飯店のスケジュールもだいたい決まっていることだし、ま、目標としては再来年か。
と、明後日の方向から、もっと遠くの方向へ目を向けてしまうのは少々現実逃避であろうか。
タイトルだけは決まっていたりして。
再来年、夏あたり。
そんな、静かでなんでもない芝居をしてみたいと思った。
19991219(日)
おそらく、今日の腹痛がMAXであろう。
……そう信じたい。
稽古もそのために行けず。
夕方過ぎてようやくなんとか復帰。
パソコンに向かってみる。
少しばかりの進展。
粘ってみるものだ。
というか、おそらく誰でもそうなのかは分からないけれど、僕の場合は何であれ、粘らないと「結果」はでないらしい。
「そういうもんさ」なんてうそぶいてみてもいいのだが、いつもそうだと少しは疲れてしまう。
それに今日の結果は、まだ出発点でしかない。
ようやく、ようやく出発か?
そして締め切りは?
腹は減るが腹痛を考えると食欲がわかない。
いつもの腹痛のパターンを考えるに、最小限の栄養分を摂取しあとはできるかぎり何もしないというのが妥当な作戦である。
これを年に数回は繰り返す。
健康面に関して、正々堂々と「健康体です!」と言えることはまず、ない。
しかし、現代という時代に生きる人間としてはそれくらいでちょうどいいのかも知れない。
人は「健康」であるという前提のもと、日々の生活を送っている。
だが、それはもはや幻想である。
もしも「健康」であるとしたら、それはたまたまなのだ。
これは自分の境遇を正当化しようとするものでもないし、ましてや意味のない妬みでもない。
現代に生きるということは、すなわち「不健康」であるということなのだ。
ただ、そのきっかけを持つか持たないかの違いだ。
むしろ「不健康である」ということを常態として認識すべきなのだ。
「体調管理」という言葉が意味を持つのはそれ故である。
19991218(土)
実際はのんびりしている時間などないのだけど、なぜだか追い込みの状態に入れない。
それはひとえに胃痛のせいでもある。
こんな時に限って、いやいや、こんな時だからこそ出てきてくれるのがこいつなのだけど、それにしてももう少し何とかならないものか。
今のところ鎮痛剤でどうにか押さえている状態。
しかし、気持ちは落ち着かない。
そうして、また、そんな状況のなか、別件で動いてみたり。
しばし、大通りを歩いてみたり。
新しいゲームソフトを買ってみたり。
それにしても人は知らず、ある局面においては激しく意識しながら、毎日を選択して生きている。
時には無意識の選択であり、時には激しい痛みを伴う選択であり、それは実に様々だ。
そしてまた、どれが正しいとは厳密には言えないところが事態を複雑にする。
ただ、選択するしかないのだ、ということだけは分かる。
それがただ一つの道であったとしても、その道を進むか、立ち止まるか、後ろを振り返るか、その道から降りて何もない道なき道を歩むか、いくらでも選択の幅は考えられる。
けれども、同時に、その瞬間にはまさに「その」選択でしかないような時もある。
僕は人間は自由であると言いたい。
だが、この自由というのは制約の中の自由である。
無限定な自由などありえない。
無限定に自由な存在、それを人は「神」と呼ぶ。
19991216(木)
植木等は歌っている。
「この世で大事なことはタイミングにC調に無責任」
その全てにおいて自分はどうかと考える。
なかなか、どうしてよいのか分からないものだ。
「悩むな、考えろ」
と人は言う。
まさにその通りである。
前に、先に進むためには立ち止まらずに前を、行く先を見ていなくてはならない。
しかし時として立ち止まってしまう。
いかに進むべきか。
何かしらの決断を決断しなければいけないのかもしれない。
裏・植木等的人間はひたすらに胃痛に耐えるのみである。
19991215(水)
少しばかり方法を変えてみる。
少しばかりの方向転換が少しばかりの光を生み出す。
問題はあと1週間でこの光に到達できるかどうかだ。
やはり、こもるしかないかもしれない。
あるいはモスバーガーか。
そう、なぜかモスバーガーは落ち着く場所であったりする。
微妙に考えがまとまりやすい。
特に午前中のモスは。
それは同時に夜の作業に向いていないことの証拠かもしれない。
いや、そういうわけではないのかも。
単純に今の生活のリズムでもあるわけだ。
まぁ、悪いリズムではないと思うけど、この段階までくると深夜でも日中同様のキレがほしくなってくる。
とはいえ、人間が1日に集中できる時間というものは決まっているとも思うわけだ。
……ん、言い訳か?
(であるならば、余計に「コツコツ」という単語が頭をよぎるのであるが、それはすでに遅かったりもする)
19991214(火)
一つの決意をしようとしている。
それが正しいことなのが間違ったことなのかは分からない。
しかし、一つの結末としてはなかなかに面白いものなのかもしれない。
きっと、自分の納得のいくような結末を迎えたいのであろう。
周りのことはあまり考えていないが、でも、何とはなしにそうするしかないであろうと思う。
それは今の状況でのベストではないし、ベターでもない結論である。
だから決意が必要になる。
評価は自分で下せばよいのだとも思う。
それが3ヶ月ほど考えた結果なのだ。
それが僕の中で切実になってきたというだけのことなのである。
しかし、決意は実行に結びつかなければ意味がない。
要するにタイミングなのである。
久しぶりに坂本龍一を聴く。
19991212(日)
何かしら始められるような予感。
再開というべきか。
気分として継続しているのだが、いい意味での断絶ができたようだ。
何がそうなのかはわからないが、それでもとにかくするしかないのである。
ところで金はあればあるだけいいというものでもない。
ないのは困るが、必要において十分であればいいのであろう。
ところが人間は欲がつきない。
我々は本能的に消費をしたがる動物なのかもしれない。
あるいは社会的本能とでもいうべきか。
19991211(土)
時は金なり。
「時」のために「金」を使ったが、結局それは僕の勘違いに終わってしまったようだ。
意味もなく午前中大通りを歩いてみる。
本を一冊読む。
久しぶりに何か一つのことを成し遂げたような気がする。
持久力ということを考える。
それは充実しているときには気が付かないものである。
それは「努力」という言葉と似ている。やはり努力という言葉が使われるときは、努力を必要としている時なのだ。
「持久力」とか「努力」とか「頑張る」とか「前向きに」という言葉が必要ではない時、まさにその状態にあるということである。
言葉は対象を設定し、それを客体化する。
それがおのれの状態である時にはこの機構は働かない。
19991210(金)
暗中模索、というか。
暗闇すら認識できなくなってきている。
納豆のようにねばるべきときなのであろう。
そのためには寝かせるための時間が必要なのかもしれないが。
もしかするとそれはもう十分にとってきているのかもしれない。
しかしながらじっくりといすに座っていても論理が展開しない。
なぜかもっとも落ち着いて考えられる場所がモスバーガーだったりするから面白い。
かえって人の出入りがあって、それなりににぎやかな方が孤独に何かを考えるにはいいのかもしれない。
一人で何かを考えるにはあまりにも「孤独」という存在感が強くなってしまうのだ。
19991207(火)
しばらく間が空いてしまった。
というのもパソコンの調子が悪かった、というか使えなかったのだ。
今は問題は解決し、ついでにOSもウィンドウズ98になってしまうなど、少しばかりの気分転換になった。
一日が長かったり短かったりの今日この頃。
しかし、気分は常に上昇への道を見つけられないでいるようだ。
何はとりあえず、おそらくきっと何かの決断をするに違いない12月ではあるのだろう。
モヤモヤとしたものは相当にたまってきているはずだ。
言葉が出てくるときと出てこないときの差が激しいのにはまいってしまう。
なんとかならないものだろうか。
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